2021年07月17日
虐待を受けた子どもたちの「その後」ー黒川祥子氏著『誕生日を知らない女の子』
「はじめに」から引き込まれた。
「これは知らなくてはいけない」と思うと同時に、「知りたい」と思った。
虐待により、死亡したという子どものニュースが報道される。
「死」があるからこそ、明るみになる。
2013年の厚労省のデータでは、2011年度に虐待により死亡した子どもは99人だという。
その裏には、日々、実の親や義理の親などから虐待を受けている子どもがその何倍もいるのだろうーー。
この本では、児童相談所によって保護された子の「その後」を取材している。
私は親になり、日々、子どもと接する中で、子どもの「甘え」を至るところで感じる。
その「甘え」は色々な形で表現されるが、その気持ちを受け止めたいと思っている。
トイレ、お風呂、食事を含めてのお世話が「普通」だと思っていた。
けれども…
著者の黒川さんが出会う、虐待を受けた子どもたちは、
そういった甘えを親にぶつけることができなかった。
その結果、その子たちがどう育ったのが、その現実が描かれている。
そして今回、私は「ファミリーホーム」といって「要保護児童」を家族同様に受け入れる養育者がいることを初めて知った。
この本の中に出てくる養育者は、本当に懐が広い人格者ばかり。
私だったらできないと思ってしまった。
身の心も傷ついてきた(傷ついてることすら自覚がない)子どもたち。
その自尊心や自主性を育て、子どもたちが変化をした話に、「人は変われるんだ」と思えた。
同時に、子どもにとっての「母親」(父親)の存在が、どれほど大きいのかを改めて感じさせられた。
どれだけ家庭での生活が過酷でも、「お母さんのそばにいたい」って思うんだなって…。
その気持ちに応えない母親に対して、やり場のない怒りが込み上げてくる。
百歩譲って、その親たちに事情があったとしても、
子どもの人生をめちゃめちゃにしている自覚があるのか、問いたくなった。
人は、社会性のある生き物なのだと改めて感じた。
親や周りからの愛情をもらい、成長していく生き物なのだ。
こうした虐待の現実に、自分が何かでくるのかと言ったら、今すぐ直接的には、できないと思う。
でも、今日もどこかで虐待に苦しむ子たちがいること、親の愛情を一度も感じたことがないまま施設で暮らす子たちがいることーー。
その「事実」を、胸に刻みたいと思う。
「これは知らなくてはいけない」と思うと同時に、「知りたい」と思った。
虐待により、死亡したという子どものニュースが報道される。
「死」があるからこそ、明るみになる。
2013年の厚労省のデータでは、2011年度に虐待により死亡した子どもは99人だという。
その裏には、日々、実の親や義理の親などから虐待を受けている子どもがその何倍もいるのだろうーー。
この本では、児童相談所によって保護された子の「その後」を取材している。
私は親になり、日々、子どもと接する中で、子どもの「甘え」を至るところで感じる。
その「甘え」は色々な形で表現されるが、その気持ちを受け止めたいと思っている。
トイレ、お風呂、食事を含めてのお世話が「普通」だと思っていた。
けれども…
著者の黒川さんが出会う、虐待を受けた子どもたちは、
そういった甘えを親にぶつけることができなかった。
その結果、その子たちがどう育ったのが、その現実が描かれている。
そして今回、私は「ファミリーホーム」といって「要保護児童」を家族同様に受け入れる養育者がいることを初めて知った。
この本の中に出てくる養育者は、本当に懐が広い人格者ばかり。
私だったらできないと思ってしまった。
身の心も傷ついてきた(傷ついてることすら自覚がない)子どもたち。
その自尊心や自主性を育て、子どもたちが変化をした話に、「人は変われるんだ」と思えた。
同時に、子どもにとっての「母親」(父親)の存在が、どれほど大きいのかを改めて感じさせられた。
どれだけ家庭での生活が過酷でも、「お母さんのそばにいたい」って思うんだなって…。
その気持ちに応えない母親に対して、やり場のない怒りが込み上げてくる。
百歩譲って、その親たちに事情があったとしても、
子どもの人生をめちゃめちゃにしている自覚があるのか、問いたくなった。
人は、社会性のある生き物なのだと改めて感じた。
親や周りからの愛情をもらい、成長していく生き物なのだ。
こうした虐待の現実に、自分が何かでくるのかと言ったら、今すぐ直接的には、できないと思う。
でも、今日もどこかで虐待に苦しむ子たちがいること、親の愛情を一度も感じたことがないまま施設で暮らす子たちがいることーー。
その「事実」を、胸に刻みたいと思う。
2021年07月06日
ありのまま、素のまま
先日、とあるスポーツ選手の方にお会いし、お話を伺いました。
日本代表でもある人で、以前より注目していたので、お会いできとてもうれしかった。
その人は、本当に「飾らない」人。
自分の気持ちに忠実で、「自分らしさ」を大事にしている。
言葉でもそう言われていたけど、「自分らしくあらねば」と意識しているのではなく
ごく普通にしている=自分らしく、という感じだった。
私は、つい、自分をよく見せようとしてしまう。
それは自信のなさの裏返しなのか…
明るく、感じよく、ニコニコ。
それは私の取り柄であることは間違いないけど、気づいたら無理していることも多々あって。
そんな自分のあり方について、考えさせられました。
37年間、この性格でいるので、もう変えるのは難しいとは思う。
でも、「自分らしくないな」とか「無理しているな」とか
心の本音に忠実でいたいし、その声にちゃんと気づきたいと思いました。
日本を背負って戦う選手だけど、適度に「ゆるい」。
その「ゆるさ」があるからこそ、一線で活躍し続けられるのかもと思いました。
お会いできて光栄でした。
これからも応援しています。
2021年06月25日
私は嫉妬し、憧れたー『インパラの朝』(中村安希氏著)
この本を通して、私は「世界」を見ることができました。
著者の中村安希さんの目線を通して、いっしょに考え、笑い、涙し、怒り、悲しみ、嘆き、感激し…
追随体験を送ることができました。
ユーラシア、アフリカ大陸を648日間、バックパッカーで旅するノンフィクション。
当時28歳だった中村さんが、身一つで旅する物語です。
読み進めていくうち、私の中である感情が芽生えました。
それは「嫉妬」。
かっこよく言うと、中村さんに対する、憧れ、羨望。
率直に言うと、私が本当は達成したかったことを、体験されていることに対する悔しさーー。
でも、私は、世界を旅するだけの勇気と度胸はなかった。
だから、中村さんの話を通して、私は「世界」の“細部”を知ることができ、国際面における“課題”を知ることができ、うれしく思っている。
どの国でのストーリーも興味深く、読み飛ばしたものはなく
問題意識を問いかけられました。
アフリカにおける、貧富の「格差」の背景では、「施しを受けることが当たり前」と思ってしまうマインド、「計画的にお金使う」という考えがないこと、そして「どうせ働いても」という諦め、さらには、そしてそもそも「困っていない」人もいるということ…
当事者でないと、わからない心情はあると思うし、私は日本という国で生まれ育ち、何不自由なく暮らしているからかもしれないけど、でも自分なりに努力をしてきた。中村さんがアフリカで出会った“貧しい”男性たちには、その「努力」や「熱意」を感じられなかった。
一時期、国際協力に憧れました。
その「現状」についても、触れられています。
世界から集まったボランティアや国際機関の職員たちの、悪気のない「支援してあげている」という気持ち、現実を見れていない状況、そして、国際援助の予算を獲得するための「ポイント稼ぎ」も。
これが「現実」なのだなと。
メディアで報道される「日本は◯◯億円の支援金を寄付した」という言葉の裏側に隠れた事実なのだと重知りました。
こちらの本は2009年に出版のため、その後の情勢は変わっているかもしれません。
それでも、異文化や人間味のあるやり取りの「本質」は、普遍的なのではと考えます。
私が好きだった言葉を思い出しました。
" Think globally, act locally "
世界的な視点で物事考え、アクションは小さき、身近な地域から変えていくーー。
そして、もう一つ思い出したこと。
私は、小2の時にドイツのボンで1年間過ごしていて、現地校に通っていました。
当時の首都は、ベルリンではなくボンだったため、大使館が多く、クラスには7カ国ほどの子どもたちがいた。
そのひとり、「親友」となったのはペガ(Pagah)という女の子。イラン人だった。
何を話していたか、もう覚えてないけど、でも、ペガとよくいっしょに過ごしていました。
彼女は、今、どこで、何をしているんだろう。
探したら、会えるのかな。私のこと、覚えてくれてるかな。
ペガに会いたくなった。
bubba_gump at 10:43|Permalink│Comments(0)
2021年06月16日
選挙にいかに無関心だったかを思い知るー『黙殺 報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い(畠山理仁氏著)』
恥ずかしながら、「泡沫(ほうまつ)候補」の意味を知りませんでした。
泡沫候補とは、選挙において「主要候補以外の候補」つまりは「立候補しても、当選する見込みのない候補者」のこと言います。
都内在住の私は、選挙前に掲げられる看板やポスター で「色物」の候補者を見かける機会が多いです。
「色物」という表現が失礼かしれませんが、要は、「絶対に当選しないだろうな…」もしくは
「当選してほしくないな」と思ってしまう人たちのことです。
私の考えは、そこで止まっていました。
なぜこの人たちは高いお金(日本は、選挙に出るための供託金が高い。選挙にもよるが270〜600万円かかる)を払ってまで選挙に出ようと思うのか。この人たちの公約な何で、そこにはどんなメッセージが込められているのか。
考えようともしなかった。
開高健ノンフィクション大賞受賞の『黙殺』を読み、いかに自分は選挙リテラシーがないかを
個人として、メディア人として、そして日本人として、痛切に感じました。
公職選挙法についても無知だし、街頭インタビューに足を止めたことも、ほとんどなかった、、
立候補者の「声」に耳を傾けてこなかった。ただ「投票に行けばいい」としか思っていなかった。
この本は、選挙のあり方について、問いかける一冊です。
著者の畠山さんがどれだけ足と手を動かして取材をされたがか文章に滲み出ています。
印象的だったのが、“泡沫候補”の方が言われた言葉で
「おれだってバカじゃない。当選しないことぐらい知っている」
という発言。
それでは、なぜ立候補するのか?
それは、「実現した政策」や「世に訴えたい思い」があるから。
それをメディアはほとんど拾わない現実。
そして、「変な人だ」と距離を置いてしまう投票者。
たとえどんな公約であろうと、政治をする、世の中を変えるという思いをもっていることは、尊重すべきことだし
世の中を嘆いて何もしない人よりもアクションを起こしている点においては尊敬にあたると感じました。
日本の選挙は、選挙前のわずか2週間しか選挙運動が許されない法律があります。
その是非は置いておいて、その14日間でも、各候補者に関心をもち、何を実現したいか知ろうとすることを、これからは心がけたいと思いました。
2021年06月01日
冒険家とは?ー『最後の冒険家』石川直樹氏
冒険はリスクをどんなに減らしていっても、最小限のリスクだけは最後まで払拭できない。
だからこそ、その行為は冒険といわれる(P139)
白紙のキャンバスに絵を描くためには表現力が必要なように、地理的な空白がなくなった時代を生きる現代の冒険家たちは、そこに特別な自分なりの題材を見つけていかなくてはいけない。だからこそ、冒険者はアーティストでもあるといえる(P179)
「絶対に成功するとわかっていたら、それは冒険じゃない。でも、成功するという確信がなければ出発はしない」(P199)
この表紙は「気球」の一部。
著者の石川直樹さんは、写真家の方だと思っていたのですが、
開高健ノンフィクション賞の2008年の受賞者でもありました。
それが、こちらの「最後の冒険家」。
気球、正確に言うと熱気球に乗り、世界記録に挑戦をする神田道夫氏のエピソートを
石川直樹さんの視点で書かれています。
気球についての知識はほとんどなかったのですが、
この一冊を読み、想像しながら追随体験をしていくことができるほど、引き込まれていきました。
神田道夫さんの「やる」と決めたらやり続ける姿勢。
冒険家の方の信念または執念を感じました。
「冒険」って言葉、これまで何百回と耳にしてきたけれど
「冒険とは何か」について考えたことはなかったことに気づきました。
それが冒頭の引用の
「冒険はリスクをどんなに減らしていっても、最小限のリスクだけは最後まで払拭できない」との言葉。
腑に落ちました。
予定調和だったら冒険とは言わない。
リスクがあるからこその「冒険」だけど、
「成功するという確信がなければ出発はしない」と。
リスクは“払拭できない”けれど、”成功すると確信”して進む。
この矛盾に気付く。
いや、矛盾ではないのか。
リスクを想定して念入りに準備し、臨む。いわば、リスクをも包括して進む。
目標を一つひとつ乗り越えていく。
そこに達成感やカタルシスを感じるのだろう。
「命を燃やして」気球にのめり込んだ神田道夫さん。
彼の人生は、幸だったのか、不幸だったのか。
それは第三者が決めることではないかもしれないけど、
その問いの答えを、私は頭の中でグルグル考えています。
2021年05月09日
「あなたにとって“いい人”とは?」
先日、お坊さんにお話を聞く機会がありました。
そこで、「あなたにとって“いい人”とは?」との問いかけがあった。
“いい人”かぁ。
いっしょにいて心地いい人、楽しい人とか。
そんなことを漠然と思っていたら、お坊さんはこう言いました。
「あなたにとっての“いい人”は”都合のいい人”です」
なるほどなと思いました。
自分にとっては「快」の人なんだなと。
続いてお坊さんはこう言いました。
「ぜひ、あなたにとって“都合の悪い人”と付き合ってみてください」
この“都合の悪い人”と聞いて、何人かの顔が浮かびました。
「快」ではない人といることで、自分の負の感情が見える。
その感情を“敢えて”体験する。
そこに、何かの気づきがあるかもしれない。
大人になると、なかなか厳しい指摘を受けなくなると聞きます。
私には幸い、厳しい指摘をしてくれる人が周りにいました。
その人たちにからの言葉にグサッと来たり、不快な思いを味わうことがあったけど、
それはある意味、「的を得ているから」ということもあるよなと。
居心地が悪くても、敢えて“都合の悪い人”と付き合うことも大切と思った出来事でした。
そこで、「あなたにとって“いい人”とは?」との問いかけがあった。
“いい人”かぁ。
いっしょにいて心地いい人、楽しい人とか。
そんなことを漠然と思っていたら、お坊さんはこう言いました。
「あなたにとっての“いい人”は”都合のいい人”です」
なるほどなと思いました。
自分にとっては「快」の人なんだなと。
続いてお坊さんはこう言いました。
「ぜひ、あなたにとって“都合の悪い人”と付き合ってみてください」
この“都合の悪い人”と聞いて、何人かの顔が浮かびました。
「快」ではない人といることで、自分の負の感情が見える。
その感情を“敢えて”体験する。
そこに、何かの気づきがあるかもしれない。
大人になると、なかなか厳しい指摘を受けなくなると聞きます。
私には幸い、厳しい指摘をしてくれる人が周りにいました。
その人たちにからの言葉にグサッと来たり、不快な思いを味わうことがあったけど、
それはある意味、「的を得ているから」ということもあるよなと。
居心地が悪くても、敢えて“都合の悪い人”と付き合うことも大切と思った出来事でした。
bubba_gump at 23:21|Permalink│Comments(0)
2021年04月27日
目標のさらにその先へ
高い目標は掲げるのに、
身近な目標を、低く設定しているクセがあることに気付かされました。
約1年、編集部員として関わったあるメディアの編集長との面談で感じました。
身近な目標ーー。
例えば、取材して書く記事。
力を出し切れていないことも、正直あると思いました。
それは、まぁ、いろいろ要因がありまして。。
1番はクオリティを高く、期限内に作成する(提出する)ことが1番です。
いただく報酬においても、力の入れ具合は変わってくるのは当然のこと。
それでも、一度受けた仕事、担当させてもらった仕事のクオリティを最低でも100%、
可能なら120%にできることが、一流なのではと改めて思いました。
思うけど、それができない。
受ける仕事もセーブしてしまう。
それは「怖い」から。
首が回らなくなるのが怖いから。(現に、今も回っていないのですが…)
長年見てもらっている整体の先生にも以前に同じこと言われたことを思い出した。
「もっとできるはず」という言葉。
ブレーキを踏むのをやめたい。
怖いけど。
来月から、また環境が変わる。
リスタートできるかな。
目標の「さらにその先」へ行きたい。
身近な目標を、低く設定しているクセがあることに気付かされました。
約1年、編集部員として関わったあるメディアの編集長との面談で感じました。
身近な目標ーー。
例えば、取材して書く記事。
力を出し切れていないことも、正直あると思いました。
それは、まぁ、いろいろ要因がありまして。。
1番はクオリティを高く、期限内に作成する(提出する)ことが1番です。
いただく報酬においても、力の入れ具合は変わってくるのは当然のこと。
それでも、一度受けた仕事、担当させてもらった仕事のクオリティを最低でも100%、
可能なら120%にできることが、一流なのではと改めて思いました。
思うけど、それができない。
受ける仕事もセーブしてしまう。
それは「怖い」から。
首が回らなくなるのが怖いから。(現に、今も回っていないのですが…)
長年見てもらっている整体の先生にも以前に同じこと言われたことを思い出した。
「もっとできるはず」という言葉。
ブレーキを踏むのをやめたい。
怖いけど。
来月から、また環境が変わる。
リスタートできるかな。
目標の「さらにその先」へ行きたい。